いとうちひろのエッセイ「ニッポンの会社今昔物語」

真夜中の訪問者

今回はちょっと趣向を変えて、『居室で見かけた変なモノ』について触れてみたいと思います。
私が以前社員として働いていた会社は、商社だったこともあって、常にいろいろな業者が出入りしていました(当時の居室は23階建ビルの13階でした)。
仕事に関係する業者は勿論の事、地下鉄から直接上がってこられる立地で、今の会社のセキュリティーシステムでは考えられないことですが、社内入口はノーチェックだったので、食品関係ではヤクルトおばさんから行商のおばちゃん、 靴箱を一杯背負ったおじさんが、商談室でいきなり靴屋を始めちゃったり(お得意さんの社員がいた)、完全にただ迷い込んできてしまったと思われる親子連れが居室の真ん中でボーゼンとしていたり……、なんてこともありました。
私の経験で一番強烈だったのは、毛布のようなモノをズルズルひきずったホームレスのおっちゃんが、商談室で寝てしまった事でしょうか……。
さすがにこの時は、自分ではどう対応していいのか分からなくて警備室に電話してしまいました。

さて、ところは変わってその当時からセキュリティーの厳しかったメーカーでも、変なモノは出没していたようです。
某大手メーカーの技術棟は、入り口でスキャンニングしないと建物に入れない構造になっている……筈なのですが、その5階で犬が大運動会を繰りひろげていたとか。 一体何処から入って来たんでしょうか?(そりゃあ入口でしょうけど……)

また、某開発の設計者加藤さんは、こんな変なモノに遭遇してしまったそうです。
それは、まだ残暑の残る初秋の頃の事でした。
朝はよく晴れていたので、天気予報もよく見ずに自転車で出社してしまった彼でしたが、夕方より激しい雨が振り出し、 12時近くなった今もシトシトと降り続けていました。
自転車で出かけた彼を心配した妻から、
「車で迎えに行く」
という電話が入りましたが、どう考えても今日は徹夜するしかなさそうな仕事の進捗具合だった彼は、アテもなく妻を待たせるわけにもいかず、
「今日は徹夜になるからもう寝るように」
と、申し出を断って電話を切りました。
電話を切ってからなにげなく辺りを見回すと、珍しく今日の徹夜はどうやら彼だけのようでした。
彼の周りだけを残して明かりは全て消されており、時々雨が激しく窓を打つ音だけが広い居室に響き渡っていました。
大きくひとつノビをした彼は、「さて、やるかぁ」と誰にいうとでもなく呟くと、再びモニターに目を落とし作業を始めました。

しばらく作業を続けていると、フト彼はどこからともなくネコのような鳴き声が聞こえたような気がして、顔を上げました。
ですがここは4階。ネコの声など聞こえるハズもありません。
「雨音でも聞き間違えたかな……」
とつぶやいて作業に戻ろうとしたその時、南北に長い居室の北側の奥の方から物音が聞こえたような気がして、再び顔をあげました。
「??」
守衛でも巡回に来たのかと思いましたが、ドアが開いた様子はありません。
音源のはっきりしないモヤモヤした音は、やがて気配をも見せはじめ、しかも次第に近づいてくるようでした。
姿は無いのに、気配だけがあるのです。
「な、何だ!?」
それは、もう居室の真中近く迄来ており、モヤモヤした感じというのはどうやら、 人が何人かで話している話し声だということが分かりました。
彼は、背中に冷汗をビッショリとかきながら、その気配から目を離すことも出来ず、石の様に固まったまま、その気配を見つめていました。
やがてそれは、彼のすぐ隣の島迄やって来ました。
なにを話しているのかは全く理解できませんでしたが、怒っているような声の調子で、話しているというよりはむしろ怒鳴りあっているという感じでした。
そして、それはとうとう隣の島を離れ、さらに彼にむかって近づいて来たのです。
声はもはや、スピーカーでガンガンがなり散らしているような音量になっていました。

「う、うわァ〜!!」

彼はあらんかぎりの力を振り絞って椅子から立ち上がると、パソコンも図面も放り出して南側出口に向かって走り出しました。そして階段を一気に駆け降りると、自転車置き場までサンダルのまま猛ダッシュし、そのまま家迄まっしぐらに走り抜けました。

一方、加藤さんから電話を受けた妻は、準備してあった夕飯を冷蔵庫にしまって、そろそろ寝ようかと、テレビを消そうとしているところでした。
そこへ、玄関のドアがドスンという音をたてたのです。
「??」
妻は恐る恐る玄関へ行き、ドアチェーンを掛けたまま、そぉ〜っとドアを開けました。
そこには、サンダル履きで作業着を着、社員証を付けたまま腰を抜かし力なく笑うびしょ濡れの夫がおり、その姿に妻まで腰を抜かしたのでした……。

いかがですか?たった一人での残業時には、絶対思い出したくない話題ですね〜。
後日談として、加藤さんはこれ以後、一人での徹夜は絶対しないようになったそうです。

次号は11月1日に公開予定です。

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