いとうちひろのエッセイ「ニッポンの会社今昔物語」

究極の選択 後編

荒れ狂う空の下、全身ずぶ濡れになりながら、彼は両手を水の中に入れると手をつける場所を探しました。
そして、両手でガッチリ身体をささえると、ソロソロと上へ身体を持ち上げ、両足の膝が自由になったところで片足を出し、何とかそこから抜け出したのでした。
右足ふくらはぎ付近に相変わらず激痛が走ってはいましたが、どう目を凝らしてみても怪我している部分が一体どこなのか、泥だらけのためによく分かりませんでした。
彼は気を取り直すと、今度はより慎重に歩を進め、車のチェックに取りかかりました。
車の下部分は一部水に浸かってしまっていたが、マフラー部分はまだ無事で、これ以上水位が上がらなければ、何とか持ちこたえられそうでした。
水位がこの後どうなるかは、まさに台風次第。彼は、
「タイヤが全部沈んだら終わりだな……」
と呟くと、もと来た道を慎重に引き返し、部屋へ戻ったのでした。
風呂場でシャワーをあびて身体の泥を落とし、右足を丁寧に洗ってよく見てみると、痛むところは、ザックリと派手に皮が捲れてしまっていました。
「うわぁ〜、こりゃあちょっと酷いなあ」
彼は病院に行こうかとも思ったのですが、引越してきたばかりでどこにあるのか分からないし、第一今の状態ではどこが道なのかも判断できません。
(救急箱位買っとけば良かったな〜)
と激しく後悔しましたが、とにかく今は何も手元にないので、
「ま、しょうがないか」
と、とりあえず翌日まで我慢することにして、またゲームの続きに取り掛かったのでした。
翌朝、何とか水没は免れた愛車で台風一過の朝日を眺めながら出勤すると、彼はそのまま真直ぐに『健康管理室』へ赴きました。
受付で事情を話し診察室に入ると、産業医は彼の足を一目見るなり、
「今直ぐ病院に行きなさい」
と言い、彼が地理不案内と知ると、大まかな地図まで書いてくれ、
「とにかく、急いで行きなさい」
と、急きたてたのでした。
医者の意外な言動に戸惑いながら、彼は言われるがままに上司に報告すると、上司も足を見て驚き「直ぐ行け」と許可をくれ、そのまま指定された病院へ向かったのでした。
病院に到着し受付の看護婦に足を見せると、最優先で診察室に招き入れられるなど、あまりの展開の速さにさすがの彼もちょっとビビッてきました。
医師は、事の経緯を聞きながら、彼の右足をしげしげとながめ、
「こりゃまた、随分ハデにやったねえ」
と、傷をつついたのでした。
「い、痛いッスッ!」
と、抗議の意味も込めて言うと
「うん。ちょっと痛むけど、きちんと消毒しておかないと危ないからね」
などと、彼の言う事などまるで気にしない様子で、グリグリ治療を始めました。

(ウギャゴギャゲギャ〇×△☆■!!)

何とも言いようのないないシミ痛さの上に、麻酔抜きで15針も縫われて、さすがの彼も目を白黒させてしまったのですが、なんとか治療も終わり、ヤレヤレと立ち上ろうとした時、
「ああ、念のため破傷風の予防接種をしておいた方がいいと思うよ」
と、医師は思い出したように切り出してきました。
「え? ああ、そういう事ならお願いします」
と、彼はもう一度椅子にキチンと座り直しました。
「ええと、破傷風の予防接種は、お尻に三種類の注射を打つんだけど……」
「ハイ」
以前、海外旅行前に似たような注射を何度も経験している彼は、何の疑問もためらいもなく、 早くもズボンのベルトを外しかけていたのですが、医師は更に続けて尋ねてきました。
「2種類は何の問題もないのだけれど、残りの1種類は血液製剤なんだけど、良いかなあ?」
「……ハ?(何の事?)」
彼はズボンに掛けている手を止めて、医師を見つめました。
「血液製剤?…ああ、HIVの…。でも今はもう大丈夫なんでしょう?」
「絶対大丈夫っていう保証はできません。取扱説明書も見せますけど、ホラ、ここにも 絶対の保証は出来ないって書いてあるでしょう。」
「……。」
何と、彼はここで、

1. 破傷風は完全に予防できるが、HIVになってしまうかもしれない
2. HIVになることはないが、破傷風になってしまうかもしれない

という究極の選択をせまられてしまったのです。
「う、う〜〜〜〜ん。ど、どうしようかなあ〜〜〜〜」
ズボンを半分下げたまま、考え抜いた彼が出した結論は、2.番。
そして注射の後、ぎこちなく歩きながら、
「今日一日ゲームができるし、ま、いっか」
と1人つぶやいて車に乗ろうとした彼でしたが、車に乗る瞬間
「うぉぉ!!」
と思わず絶叫してしまいました。

うかつにも彼は、右足を怪我しているのに、左臀部に注射してしまい、どちらに体重を掛けてもどこかが痛い状態になってしまっていたのです。
その後彼は、自分のツメの甘さ加減を呪いながら、足の痛みと破傷風の発病の恐怖に怯える一ヶ月を過ごさねばならなかったのでした……。

*このお話は今から約10年前の出来事ですので、血液製剤の安全性については、今現在の状況を示すものとは限りません。

次号は8月15日に公開予定です。

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