いとうちひろのエッセイ「ニッポンの会社今昔物語」

究極の選択 前編

これは某メーカーで仕事をしていたときのお話です。
前々から「いつか、来るぞ」と予想はしていたのですが、 その辞令はある日突然唐突にされ、中堅設計者である中井さんは、九州の工場に長期出張する事になりました。
バタバタと荷物をまとめ、間取り図だけで決めた借上げ社宅のアパートに荷物を送り、自分は車で、はるばる日本列島縦断の旅をして、迷いながらもなんとか新居にたどり着いた時には、すっかり日付も変わったド深夜でした。
取敢えず暮らさなければならないので、身の回りの物だけ何とかかたずけたのですが、移動早々忙しく、アパートには真夜中に変える毎日が続いていた為、家の周りがどうなっているのかさえさっぱり分からないような状態のまま、既に一週間が過ぎようとしていました。
ある朝、目覚まし代りのTVニュースを聞きながら彼は、
「台風か・・・、またしばらく雨だなあ」
などと思いつつ、ボンヤリ外を見ながらタバコを吸っていました。
その年は台風の当り年で、九州にも巨大台風が接近していたのです。
彼は関東の出身で、台風直撃の経験は一度しかなく、それも

『そう言えば前に沖縄を旅行中、西表島でカンズメになったっけなあ。』

程度の記憶しかなかったので、特に心配することもなく、いつも通り仕事に就いたのでした。

ところが、今度の台風は一味違っていたのです。
そのあまりの大きさと、工場のほぼ真上を通過する予報が出ているという工場初の事体に総務部が不安を覚えた為、その日の就業はお昼前に取止めとなったのでした。
「ラッキーッ!」
彼にとっては出張以来始めての休みを、奇しくも台風でGETすることになり、まさに台風様々、ホクホク気分でアパートに帰ると、ほぼ一ヶ月程さわっていなかったパソコンのRPGゲームを、まだ未整理だったダンボール箱から引っ張り出し、ゲームに熱中したのでした。

どれくらい時間がたったのでしょうか、彼は外の『ドウドウ』という音に気付いてフト顔をあげました。

「?」

時計は午後4時を少し回ったところでした。
それまでも、『ゴーゴー』という風の音や時折激しく窓を叩く雨音はしていたのですが、 『ドウドウ』という音源は想像がつきません。
立ち上ってTVを付けながら、窓の外を覗いた彼は一瞬我が目を疑いました。
(な、なにぃ〜〜〜ッ?!)
何と辺り一面水浸し、ひらたく言えば 『洪水』で、まだ田畑の多いアパート近くは、見渡す限りの茶色い海原と化していたのです。
『ドウドウ』という音の音源は、まさにこの『洪水の音』だったのです。
「げっ、マジッ!?」
彼は慌てて台所に走り、窓から自分の車を見下ろしました。
2階にある彼の部屋から、ちょうど斜め下15m程先に車が駐車してあり、目をこらしてみると大体タイヤが10cm位水に浸っているようでした。
(まだ大丈夫だな・・・。)
とTVを見ると、台風の中心はこれからやってくるというではありませんかっ!
あと3年もローンが残っている車なです。ここで壊れたらシャレになりません。
(水よ増えるな。水位よ上がるな〜!!)
と念じ続けてはみましたが、それから1時間のもたたないうちにさらに水位は上がり、タイヤが半分位水に浸ってしまった為、彼は意を決して車のチェックに行くことにしました。
どうせ濡れるのだからと、夏に買った安いビーチサンダルにTシャツ短パンといういでたちで外に出ようとしたのだが、どうしたことか玄関のドアが開かないのです。 

「!?」
                                
何と、風圧でドアが開かないのです。
彼は渾身の力を込めてドアを押し開け、下から吹き上げる風と真横から叩きつける雨に逆らいながら1階迄降り、恐る恐る洪水の中へ足を踏み出しました。
そして車まであと5m程の所迄きた時、激痛と共に『ズボッ』っと身体が沈み、太股迄水に沈んでしまったのです。
「うわあッ!」
慌てて身体を動かそうとしましたが、どうやらガッチリはまり込んでしまったらしく、思うように動けません。
(大丈夫、大丈夫。落ち着け、落ち着け・・・。)
と自分に言い聞かせながら彼は、西表島の岸壁にペンキでデカデカと書かれた標語を思い出していました。

『来るぞ台風 備えはよいか!』

ちっとも良くなかったのでした・・・。       つづく

次号は8月1日に公開予定です。

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